「みんなで作りました」はダサい
「みんなで作りました」
というような作品や成果物はだいたいダサくてすぐに飽きられるなと思った。
例えば、幼稚園で卒業記念かなんかに街中の壁に絵を書いたりするやつ。
「みんな」という言葉やコンセプトにはどこかに自立していないことをよしとしたり、権力者へのへつらいを自分は感じる。
こんなことがあった。
うちの会社では、年に一回最も成果を上げたプロジェクトを投票で決めて賞金つきで表彰する制度があり、自分の所属するPJが良い成績を出してまとまった額の賞金をもらえることになり、祝賀会をやろうということになった。
そこで、景品付きのクイズををすることになり、若手で案を出し合う会をした。ファシリテーターがいなかったこともよくなかったのだが、みんな上司のかおを伺ったような意見しか出さず、結果取りまとめ役のボスからはほとんど却下されるような案しか出せなかった。
こんなのは余興だから別にいいとしても、仕事の面でもこういうことはよくあるなと思う。奇抜な案やハードルの高い提案は、仮に採用されたとして言った本人が責任をとらされることを恐れてなかなか言えなかったりする(怖いというより、ただでさえ仕事が膨大なのにこれ以上仕事が増えたらたまらないという気持ちの現れだろう)。
世の中には一人の人が作ったといわれるようなもの、あるいは強力なリーダーが前面に出ているような作品や製品が異彩を放ち、長く愛される。
ここで重要なのは、実際には関わった人は何百人いたとしても「その人が作った」と思われるということである。
例えば、スティーブ・ジョブズのiPhone、マーク・ザッカーバーグのfacebookがそうだ。
彼らはその作品が「自分のものである」ことを公言してはばからないし、だからこそ細部まで一貫性があり品質が高いものが作られている。
コモディティになったとしても、一品物のような気品がある。
みんなでダサいものを作るより、
独りでも、かっこ良いものを作ろう。
いくら失敗しても、時間の無駄にはならないはずだ。
当たり前を当たり前にやるのは当たり前だけど、簡単ではない
悩んでいる暇は無い
プログラミングは美味しい
「何もしてないのに動かなくなりました」
プログラミングの勉強し始めはこういうことが多い。メンターの助力の度合いもあるけど、これを乗り越えていくことが大事で、それがすごく楽しいところだ。
今日、会社の任意参加の研修で、うちの会社の内製ミドルウェアを環境構築して簡単なプログラムを作るというものがあったので参加してきた。
コンピュータプログラミングは書き方とか、環境の構成とか最初はめんどくさくて退屈なんだけど、なぜそうなっているのかわかるとおもしろい。しかも、自然言語と違ってなぜそうしてるのかには必ず答えがあり、やっていくうちに気づく瞬間が用意されている。
噛めば噛むほど味がでてくるというか。
新しい言語に手を出してみようかなと思った。
赤っ恥をかいたこと
新しいものより、新しい自分
魔法のようなことをやるより、魔法が無いことを気づかせることのほうがずっとお客さんのためになる
「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」
私はあまり、SFを読まないが『幼年期の終わり』などで有名なクラークの言葉らしい。
ただし、現実に魔法は存在しない。スマホにしろ、自動車にしろエネルギーの流れを非常に効率よくコントロールしている科学技術の土台に上に成り立っている。また、優れたサービスや接客も科学ではないけど、長年の間に人が編み出してきた技術の応用だ。
消費者視点では、「安くて便利になった。バンザイ」で終わりでよいのだが、その土台を我々自身もになっているわけである。その土台を作ることが資本主義における仕事というものであり、その仕事はとても辛いが楽しいものだ。
いましている仕事は、直接のお客さんのためになり、そのお客さんがさらによい仕事をして世の中は螺旋状に良くなっていく。そんな構図が理想であると思う。
ただし、目の前の客にいい顔をしようとか、自分だけよく見られたいという欲が出てくると、話は違ってくる。
自分たちの技術を「本当は魔法じゃないのに、魔法と見せかける」ことをしてしまう。
つまり、自分たちの技術をブラックボックス化して、専売特許のようにするのである。
これは、「3分クッキング」に似ている。本当は3時間かけて煮込まないといけないスープをテレビの画面上は一瞬でできるようにしてしまう。
実はこの煮込んでいるスープは、雑味がつかないように常に灰汁をとりつづけなくてはいけないだとか、火加減を微妙に少しずつかえないといけないだとか、5分おきに材料を少しずつ加えないといけないだとかいう、本当は一番本質的に大事なんだけど面倒で泥臭い部分をひた隠しにしてしまう。
こういうことをやっていると、最初はお客にありがたがられるが、それが当たり前になってきて期待値があがるため、できないとすごく怒られるようになる。
自分たちの価値をうまく表現するのに失敗してしまった例だ。
ITの世界では、自分たちの価値を全く同様に損ねてしまう動きと、逆に価値をうまく表現する潮流の2つが入り混じって複雑な潮目ができている業界だと思う。
前者の例は(不味い)システムインテグレータであり、人月工数による見積もりであり、
後者の例はオープンソースであり、人工知能(ディープラーニング)である。
ポイントは、「自分たちができること」「自分たちがやること」「自分たちのもの」という所有の概念にとらわれているかいないか。
自分たちができれば、他人もできる。ただ、自分たちが苦労して得たことは工夫してよくしたものを次の人に渡していく。
「自分たちのやっていることなんて簡単なんで、最初は教えますがあとはお客さん自身でやってくださいね」というのが実はあらゆるサービスの中で最高のサービスなのではないかと思う。
魔法のようなことをやるより、魔法が無いことを気づかせることのほうがずっとお客さんのためになる。
そんな潮流に乗りたいなと思う今日このごろ。
どこに流れ着くかわからないけど、「自分が」どこに流れるより、その流れ自体を楽しみたい。