haruyuki's diary

高等遊民またはニート。新卒コンサル10年目でうつ発症し退職

「みんなで作りました」はダサい

「みんなで作りました」

 

というような作品や成果物はだいたいダサくてすぐに飽きられるなと思った。

 

例えば、幼稚園で卒業記念かなんかに街中の壁に絵を書いたりするやつ。

「みんな」という言葉やコンセプトにはどこかに自立していないことをよしとしたり、権力者へのへつらいを自分は感じる。

 

こんなことがあった。

うちの会社では、年に一回最も成果を上げたプロジェクトを投票で決めて賞金つきで表彰する制度があり、自分の所属するPJが良い成績を出してまとまった額の賞金をもらえることになり、祝賀会をやろうということになった。

そこで、景品付きのクイズををすることになり、若手で案を出し合う会をした。ファシリテーターがいなかったこともよくなかったのだが、みんな上司のかおを伺ったような意見しか出さず、結果取りまとめ役のボスからはほとんど却下されるような案しか出せなかった。

 

こんなのは余興だから別にいいとしても、仕事の面でもこういうことはよくあるなと思う。奇抜な案やハードルの高い提案は、仮に採用されたとして言った本人が責任をとらされることを恐れてなかなか言えなかったりする(怖いというより、ただでさえ仕事が膨大なのにこれ以上仕事が増えたらたまらないという気持ちの現れだろう)。

 

世の中には一人の人が作ったといわれるようなもの、あるいは強力なリーダーが前面に出ているような作品や製品が異彩を放ち、長く愛される。

 

ここで重要なのは、実際には関わった人は何百人いたとしても「その人が作った」と思われるということである。

例えば、スティーブ・ジョブズiPhoneマーク・ザッカーバーグfacebookがそうだ。

彼らはその作品が「自分のものである」ことを公言してはばからないし、だからこそ細部まで一貫性があり品質が高いものが作られている。

コモディティになったとしても、一品物のような気品がある。

 

みんなでダサいものを作るより、

独りでも、かっこ良いものを作ろう。

いくら失敗しても、時間の無駄にはならないはずだ。

 

 

 

当たり前を当たり前にやるのは当たり前だけど、簡単ではない

「そんなの当たり前だろ」
という言葉はよく職場で耳にする。

例えば、どんなに緊急の改変でも検証環境で一度テストしてから本番環境にリリースするとか、会議するなら会議室を予約するとか。

本当のど新人を抜かせば、誰でもできることだし、やらない理由を見つける方が難しいこと。

でも、これらは100%守られないし、そのせいで時間をロスしたりやり直しになったりと実害もでている。
これはそれをすっ飛ばした個人のせいなのかというと、そうでは無い。これは絶対にチームのせいだと思う。
当たり前のことを当たり前にできないのは、その当たり前の作業を実際にやらない上司が阻害していることはよくある。

怒っている客に即応するためにメンバーにプレッシャーをかけて直ぐにやるように指示する。
メンバーは焦って手順を飛ばしてしまう。
緊急の対応を任されるのは、経験豊富な人だから手順を飛ばしてもほとんどミスなんてしない。そういう熟練者がショートカットばかりしてると、未経験者まで「別にやらなくて良いんだ」とやらなくなる。

これが、「当たり前を当たり前にできない」チームのできあがる一つの過程だと思った。

「当たり前のことを当たり前にやる」のは実は結構大変なことで、頑なに守ろうとすると煙たがられもする。
しかし、ある閾値を超えると非常に信頼をもってもらえるようになり、ある程度の裁量をもたせた仕事を任せてもらえるようになる。
自分はこれにはまったタイプなので、頑固なのも捨てたもんじゃ無いと思った。

そういう役得がなかったとしても、間違ったやり方で何千回何万回繰り返しても全く実力はつかない。
一回一回の差は小さくても、半年や一年でだいぶ差がつく。「華のある」仕事を求めても間違った地味な仕事で信頼を得なければ真っ当な仕事はいつまでも任せてもらえない。

これこそ、「当たり前」なんだけど、案外わからないものだ。

悩んでいる暇は無い

人間には上昇したい、という厄介な習性がある。給料を上げたい、異性からもてたいというのは実は表面的なことで、ここでは無い新しい場所にいきたいという欲動が無意識レベルで働いているのだと思う。

その欲動は、有名でカッコよい職業とされる会社に転職するとか、異性と何人付き合ったとか、いくらボーナスが出たとか、そういった次元よりずっと先に我々を連れて行ってくれるものだと思う。
ただ、そのエネルギーは自分ではコントロールできないぐらい強くて下手したら簡単に他人を傷つける。それが怖くて、人は「悩んでる」とか言って行動を止めてしまい、安楽な場所に居ついてしまう。

自分は、社会人になってみて、その欲動は仕事によって、「人に貢献する」という形で適正な方向付けがされると思うようになった。
本当にチャレンジングな仕事は悩んでいる暇が無い。矢継ぎ早の意思決定と、行動が必要だ。
気付いたらいつの間にか高い山の上にいる、という経験をもたらしてくれる。

悩んでる暇があったら、人に貢献しよう。
二つ道があったら難しい方を選ぼう。

そうやってしか、あの欲動を抑えつける以外でコントロールする方法はない。


プログラミングは美味しい

「何もしてないのに動かなくなりました」

プログラミングの勉強し始めはこういうことが多い。メンターの助力の度合いもあるけど、これを乗り越えていくことが大事で、それがすごく楽しいところだ。

今日、会社の任意参加の研修で、うちの会社の内製ミドルウェアを環境構築して簡単なプログラムを作るというものがあったので参加してきた。

コンピュータプログラミングは書き方とか、環境の構成とか最初はめんどくさくて退屈なんだけど、なぜそうなっているのかわかるとおもしろい。しかも、自然言語と違ってなぜそうしてるのかには必ず答えがあり、やっていくうちに気づく瞬間が用意されている。

噛めば噛むほど味がでてくるというか。

新しい言語に手を出してみようかなと思った。

赤っ恥をかいたこと

「それはズルい考えだよね。自分の人生は自分で決めなくてはいけない。そんな程度の決意ならやらない方がよいよ」

今日ある人に、軽い気持ちで相談したらこんなことをさらっと言われてショックだった。
相談とは、自分が決めたある決断に対して、周囲が反対したり、がっかりするんじゃないかという懸念が少しあることだった。

どういうことがショックだったかというと、自分は自分のことが意思決定が出来ているという自信があったのにその決断基準は、その人が言うように緩く甘々だったこと。
さらに、「自分で決定できる」と思っている範囲が凄く狭かったこと。他人を苛立たせたり、不安にさせたりするような事態になったとして、その責任をとれるかとれないかというところまで考えてなかったこと。
もう一つ、そもそも自分のことを周りがそこまで気にかけているのかということ。ちょっと自意識過剰なんじゃないか。

赤っ恥をかいたが、相談してみてよかった。
自分だけはそうではない、と思っていることはほとんどが自分もそうなっているものだ。
そのことはいつだって注意してもしすぎることはない。



新しいものより、新しい自分

新しい家、新しい服、新しい車、新しい仕事、新しい友達、新しい家族、、

人はなぜ「新しい」ものに憧れるのか。
新しいというのは、暗黙的に「自分のもの」という所有の概念が後ろにある。主要される側からしたら、別に新しくも古くもならないのだから。
新しい、というのは何かを得ることによって自分が変わるという期待感、あるいは不安感を表す言葉のような気がする。

そういう立場よりは、自分を自分で変えようと思って行動した結果、周りの景色が変わっていた、という立場に立ちたいと思う。

魔法のようなことをやるより、魔法が無いことを気づかせることのほうがずっとお客さんのためになる

「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」

 

私はあまり、SFを読まないが『幼年期の終わり』などで有名なクラークの言葉らしい。

 

ただし、現実に魔法は存在しない。スマホにしろ、自動車にしろエネルギーの流れを非常に効率よくコントロールしている科学技術の土台に上に成り立っている。また、優れたサービスや接客も科学ではないけど、長年の間に人が編み出してきた技術の応用だ。

 

消費者視点では、「安くて便利になった。バンザイ」で終わりでよいのだが、その土台を我々自身もになっているわけである。その土台を作ることが資本主義における仕事というものであり、その仕事はとても辛いが楽しいものだ。

 

いましている仕事は、直接のお客さんのためになり、そのお客さんがさらによい仕事をして世の中は螺旋状に良くなっていく。そんな構図が理想であると思う。

 

ただし、目の前の客にいい顔をしようとか、自分だけよく見られたいという欲が出てくると、話は違ってくる。

自分たちの技術を「本当は魔法じゃないのに、魔法と見せかける」ことをしてしまう。

つまり、自分たちの技術をブラックボックス化して、専売特許のようにするのである。

これは、「3分クッキング」に似ている。本当は3時間かけて煮込まないといけないスープをテレビの画面上は一瞬でできるようにしてしまう。

 

実はこの煮込んでいるスープは、雑味がつかないように常に灰汁をとりつづけなくてはいけないだとか、火加減を微妙に少しずつかえないといけないだとか、5分おきに材料を少しずつ加えないといけないだとかいう、本当は一番本質的に大事なんだけど面倒で泥臭い部分をひた隠しにしてしまう。

 

こういうことをやっていると、最初はお客にありがたがられるが、それが当たり前になってきて期待値があがるため、できないとすごく怒られるようになる。

自分たちの価値をうまく表現するのに失敗してしまった例だ。

 

ITの世界では、自分たちの価値を全く同様に損ねてしまう動きと、逆に価値をうまく表現する潮流の2つが入り混じって複雑な潮目ができている業界だと思う。

 

前者の例は(不味い)システムインテグレータであり、人月工数による見積もりであり、

後者の例はオープンソースであり、人工知能(ディープラーニング)である。

 

ポイントは、「自分たちができること」「自分たちがやること」「自分たちのもの」という所有の概念にとらわれているかいないか。

自分たちができれば、他人もできる。ただ、自分たちが苦労して得たことは工夫してよくしたものを次の人に渡していく。

「自分たちのやっていることなんて簡単なんで、最初は教えますがあとはお客さん自身でやってくださいね」というのが実はあらゆるサービスの中で最高のサービスなのではないかと思う。

魔法のようなことをやるより、魔法が無いことを気づかせることのほうがずっとお客さんのためになる。

 

そんな潮流に乗りたいなと思う今日このごろ。

どこに流れ着くかわからないけど、「自分が」どこに流れるより、その流れ自体を楽しみたい。